ABOUT BRASIL

2011/04/25

ブラジル連邦共和国、通称ブラジルは、南アメリカに位置する連邦共和制国家である。南米大陸で最大の面積を誇り、 ウルグアイ、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビア、ペルー、コロンビア、ベネズエラ、ガイアナ、スリナム、 フランス領ギアナと国境を接している。また、大西洋上のフェルナンド・デ・ノローニャ諸島、トリンダージ島・マルティン・ヴァス島、 セントピーター・セントポール群島もブラジル領に属します。国土面積は日本の約22.5倍で、アメリカ合衆国よりは約110万km2小さく、 ロシアを除いたヨーロッパ全土より大きいです。首都はブラジリア。南アメリカ大陸最大の面積を擁する国家であると同時に ラテンアメリカ最大の領土、人口を擁する国家で、面積は世界第5位である。南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国であり、 同時に世界最大のポルトガル語使用人口を擁する国でもあります。

国号のブラジルは、樹木のパウ・ブラジルに由来する。元々この土地は1500年にポルトガル人のペードロ・アルヴァレス・カブラルが 来航した当初は、南米大陸の一部ではなく島だと思われたために「ヴェラ・クルス島」と名づけられましたが、すぐにマヌエル1世の時代に 「サンタ・クルス(聖十字架)の地」と改名されました。その後あまりにもキリスト教的すぎる名前への反発や、 ポルトガル人がこの地方でヨーロッパで染料に用いられていたブラジルスオウに似た木を発見すると、 それもまた同様に染料に使われていたことから、木をポルトガル語で「赤い木」を意味する「ブラジル」と呼ぶようになり、 ブラジルの木のポルトガルへの輸出が盛んになったこともあり、16世紀中にこの地はブラジルと呼ばれるようになったそうです。

HISTORY of BRASIL PART01

2011/04/24

先コロンブス期

ブラジルの最初の住民は、紀元前11,000年にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々でした。彼らは紀元前8000年頃、 現在のブラジルの領域に到達しました。現在のブラジルとなっている地に遠く離れたタワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばず、 この地には原始的な農耕を営む、トゥピー・グアラニー系の、後にヨーロッパ人によって「インディオ」(インディアン)と 名づけられる人々が暮らしていました。16世紀前半の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されています。 しかし、ヨーロッパ人が渡来してくるまでは、ブラジルに住んでいた人々の生活については何も知られていません。 ブラジルの先住民には、トゥピー語系のほか、ジェー語系やヌ=アルアーク語系、カリブ語系の集団がありました。 ポルトガル人が最初に接触したのは、トゥピー語系先住民であった。そこでポルトガル人は、トゥピー語先住民の言葉が ブラジル人の言葉であると誤解し、先住民はそれぞれ部族の言葉をもっているにもかかわらず、ポルトガル宣教師達は 先住民にその言葉を教え、それは信仰も同様として仕向けられました。

ポルトガル植民地時代

1492年にクリストーバル・コロンがヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸に到達した後、 「発見」されたアメリカ大陸の他の部分と同様にブラジルも植民地化の脅威に晒されることになりました。 1500年にポルトガル人のペードロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」すると、以降ブラジルはポルトガルの 植民地として他の南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。1502年にはイタリア人のアメリコ・ヴェスプッチが リオデジャネイロ(1月の川)を命名。 1580年にポルトガルがスペイン・ハプスブルク朝と合同すると、ブラジルはオランダ西インド会社軍の攻撃を受け、 北東部の一部がネーデルラント連邦共和国(オランダ)に占領された。オランダが撤退したのは1661年のことだでした。

1680年にポルトガル植民地政府は、トルデジーリャス条約を無視してラ・プラタ川の河口左岸のブエノスアイレスの対岸に コロニア・ド・サクラメントを建設したため、以降バンダ・オリエンタルの地は独立後まで続くブラジルの権力とブエノスアイレスの 権力との衝突の場となりました。また、南部ではラ・プラタ地方のスペイン人の影響を受けてガウーショと呼ばれる牧童の集団が生まれました。

18世紀にはミナス・ジェライスで金鉱山が発見されたためにゴールドラッシュが起こり、ブラジルの中心が北東部から南西部に移動し、 1763年にはリオデジャネイロが植民地の首都となりました。ゴールドラッシュにより、18世紀の間に実に30万人のポルトガル人が ブラジルに移住し、金採掘のためにさらに多くの黒人奴隷が導入されました。一方でミナスの中心地となったオウロ・プレットでは 独自のバロック文化が栄えたそうです。

ハイチ革命の影響もあってクレオール白人やムラート、クレオール黒人(クリオーロ)による独立運動が進みますが 、植民地時代にブラジルに大学が設立されなかったなど知的環境の不備により、ブラジルの独立運動は一部の知識人の 「陰謀」に留まり、大衆的な基盤を持つ「革命」にはなりませんでした。このことは、ブラジルとイスパノアメリカ諸国の独立の あり方の差異に大きな影響を与えたということです。

ブラジルの独立

ナポレオン戦争により、1807年にジュノー元帥に率いられたフランス軍がポルトガルに侵攻しました。 このためポルトガル宮廷はリスボンからリオデジャネイロに遷都し、以降リオの開発が進んだ。1815年に リオデジャネイロはポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の首都に定められました。 ポルトガル政府はバンダ・オリエンタルのホセ・ヘルバシオ・アルティーガス率いる連邦同盟との戦いを進めて バンダ・オリエンタルを支配下に置き、征服した地域にシスプラチナ州を設立したそうです。

1820年ポルトガルを自由主義的な立憲君主制国家に変革しようとする革命が起こり、リオデジャネイロのジョアン6世に 帰国を要請しました。 1821年にポルトガル宮廷はリスボンに帰還したが、摂政として残留したブラガンサ家の王太子ペードロを ジョゼー・ボニファシオを代表とするブラジル人勢力が支持したこともあり、1822年9月7日に「イピランガの叫び」をあげて、 ペードロが皇帝のペードロ1世(在位1823-1831)に即位する形でブラジル帝国がポルトガルから独立を宣言しました。

帝政時代

ブラジルの独立はブラガンサ家の皇帝という求心力があったために、解放者シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティン、 ミゲル・イダルゴらの掲げた共和制や立憲君主制の思想が求心力とならなかった。イスパノアメリカ諸国が分裂したのとは異なり、 広大なブラジル植民地は単一のまとまりとして新たな主権国家を形成した。しかし、このことは植民地時代からのエリート層が 独立後もそのまま権力を握り続けることをも意味していたようです。 このため、帝政時代は当初から各地方の中央政府に対する反乱や、共和制を求める自由主義者の反乱が勃発し、 1820年代には北東部のペルナンブッコ州では赤道連盟の反乱が、最南部のシスプラチナ州では東方州のリオ・デ・ラ・プラタ 連合州復帰を求めた33人の東方人の潜入により、シスプラチナ州を巡ってシスプラチナ戦争が勃発しました。シスプラチナ州は イギリスの仲介によって1828年にウルグアイ東方共和国として独立しました。

独立後も大農園主の意向によって奴隷制は維持され続けたが、アメリカ合衆国の南北戦争後は西半球で奴隷制を採用する 独立国はブラジル帝国のみとなったため、三国同盟戦争後からオーギュスト・コントの実証主義の影響を受けた知識人によって 奴隷制批判がなされました。三国同盟戦争後に制度的に確立した軍の青年将校(テネンテ)達は実証主義思想に影響を受け、 次第に奴隷制の廃止と帝政の廃止をも含めた国民運動が生まれました。この運動により1888年に黄金法が公布され、西半球で 最後まで維持されていた奴隷制が廃止されたが、ペードロ2世は奴隷制廃止によって大農園主からの支持をも失い、 翌1889年のデオドロ・ダ・フォンセッカ元帥のクーデターによって帝政は崩壊したようです。